
古代への旅 I-1
2014年07月16日 14:16
大宰府政庁跡は、三世紀の女王卑弥呼が住んでいた場所になるのではないか、との希望的な推察が生まれるのです。期待が膨らみ落ち着かなくなり、九州歴史資料館を訪ねました。しかしながら、都府楼跡の遺跡をさらに深く掘り返して、『遺物や遺構の発見がなくては何とも言えない』との、さりげないお役所的な回答でした。古代のロマンの広がりは、小生の意識の流れをしばし留めてくれそうです。
古代への旅 I を掲載後、以下の文章:『』内を発見!。
『筑紫に都督府が設置されていたのは、663年の白村江の敗戦から、唐が676年に熊津都督府や平壌の安東都護府を放棄して、遼東の建安城に撤退するまでの、13年間ほどです。』
唐・新羅の連合軍に、倭国が敗戦したことは、歴史で学びました。が、敗戦後の処理のために唐の軍隊が進駐していたようです(記紀には記述なし!)。その際に、「都督府」がおかれていたとは!、です。都府楼跡の説明は、これで可能になります。しかし、地名の太宰府は、それ以前の「内裏」、[紫宸殿」、等の天子(天皇)の居所であった地名に由来する別の歴史がありそうです。
小生の独断的偏見(!?)からの推察:太宰府の地には、以下の歴史が混在していると解釈されるのです。
1。大宰府政庁跡 ーーーーーーーー 近畿大和朝廷の出先機関
2。都府楼跡 ーーーーーーーー 唐の冊封体制下の都督(天子の代理として軍事を司る役人)の役所(府): 筑紫の都督府
3。太宰府 ーーーーーーーー 太宰(中国王朝の総理大臣格役人)の役所(府): 九州王朝の中枢機関
4。地名「内裏、紫宸殿」 ーーーーー 九州王朝(?!)の天子の居所
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