
古代への旅 I
2014年07月01日 14:32
宇宙悠久の時の流れの中、真に微々たる人類の歴史ではあるが、その些細な時間への時空を越えた夢に浸っています。
月日は百代の過客にして 行き交う年もまた 旅人也 — 芭蕉
『大宰府政庁は、大化(七世紀中頃)の時代に設置された公的機関です。したがって、日本書紀等の公的書き物には、「筑紫大宰府」と、「大」で記述されているようです。ところが、その以前から地名としては、太宰府の「太」が使用されていた様です。』 奈良時代の遺跡として知られている水城とは?。その昔、大宰府政庁を守る為に築かれた土塁であると、日本史の授業で学びました。天智天皇の時代(7世紀の頃)です。ところが、その土塁の遺構の調査から、新たな事実が明らかとなりました。驚くべきことに、土塁の中の地層の木片の年代測定の結果、最も古い三世紀に原型が造られ、次いで5世紀に本格的に修築され、7世紀初めに、百済の救援のために軍を進めた白村江で敗れ為に、唐・新羅軍の攻撃を防ぐ目的で補強工事がされたことになります。
大宰府政庁は、大化の改新(645年)で、新たに設置された大和朝廷(近畿ヤマト)の役所です。その役所を防備するために築かれる以前に、すでにその場所には土塁が在ったことになるのです。政庁ができる前に在った何ものかを守る必要があったことになります。「太宰」は、中国王朝の総理大臣格の名称であり、「都督」は天子の代理として軍事を司った人を意味し、中国の伝統ある名称なのです。したがって、太宰の府or都督の府である[太宰府]は、由緒ある役所の名称なのです。ところが、「大宰府」は、大和政権の配下にあるたんなる出先機関であり、近畿ヤマト政権の新造語なのです。したがって、大宰府政庁が設置される以前から、伝承どおりに地名が太宰府であったのならば、大化改新以前の政権;邪馬台国 or九州ヤマト(倭国)政権の中枢が存在した事になるのですから、興味は尽きません!。大和朝廷の正史(日本書紀)に記録が無い(時の権力者:藤原不比等には記載したくない意図あり!)都市の建物等が在ったことになります。遺跡とそこに存在した人々との関わりの歴史は、古代へのミステリアスな魅力がある旅路を期待させてくれます。
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世にある間は楽しくをあらな ー 大伴旅人
大宰府師として赴任(727年)した武人の大伴旅人は、また万葉の歌人の一人として、後世に(901年)大宰権帥に左遷された菅原道真の悲哀を知らされたならば、如何に詠ったでしょうか?!。
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