
古代への旅 III
2015年01月12日 13:11
中国の歴史は、夏王朝(BC21~17世紀)に始まり、殷(BC17~12世紀)、周(BC12世紀~256年)の興亡を経て、秦の始皇帝(BC247年)へと続き、前漢(BC256~)、後漢(AD25年〜)の時代に倭人との関わり(遣使貢献)が始まっているようだ。中国の歴史書には前代の歴史書を前提として記述され、そのあとの情報を付加する習わしがある。周の時代の歴史書「論衡」に倭人(我が国か?)の(薬草の)朝貢が記載されているのが中国の歴史に登場する最初とされている。BC256年以前であるから、縄文時代の後期に相当する。三内丸山遺跡(青森県)との関わりであろうか?。「漢書」や「後漢書」には、『楽浪海中(韓の東南大海)に倭人有り、分かれて百余国である』と、倭人の存在を記している。漢の次の時代の歴史書「三国志」の中の魏書—東夷伝—倭人条(魏志倭人伝、三世紀編纂)に記載された邪馬台国の所在や女王卑弥呼の存在について、記載内容の解釈でさまざまな論争がなされている。が、21世紀の現在においても謎とされている。外国の歴史書に記載されているにも拘わらず、日本書紀には記載がない!。
我が国である倭国に関する中国の史籍の記事は、一世紀(57年)の「漢委奴国王」の金印紫綬から始まり、二世紀(107年)の倭国王帥升の朝貢、三世紀(238年)の卑弥呼の遣使貢献、四世紀の空白の期間から五世紀の倭の五王武を最後に約100年間(六世紀)の空白後の七世紀の遣隋使・遣唐使の派遣に至ることになる。我が国については、倭、倭人、奴国、委奴国、倭王、倭国王、俀國、等々の記述であったが、旧唐書において、倭国と日本国(ヤマト国)が分けて記載。それ以降の新唐書からは日本国とされた。中国史料において、現代の日本列島の全体の認識が、当初からあったとは考え難い。古代のある時期の最大域としても、九州から近畿大和までの地域の倭国であり、東海以東の存在は認識されていない日本国であったようだ。
日本国家の成り立ちについて、古事記、日本書紀に記されているが、文献史学と考古学との一致を見ない部分が多々ある。かつ古事記・日本書紀の神代、古代の記述の解釈は、天皇は神の末裔であり、万世一系の不可侵の存在であるとの皇国史観に基づいた解釈の呪縛からは逃れられない現状があるようで、真実を伝えているとは考え難い内容である。
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