古代への旅 II

2014年07月13日 21:04

 

  日本書紀の記述の謎!。

遣隋使」と言えば、歴史的事実として、聖徳太子小野妹子派遣したということや、『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや』という国書が、隋の皇帝煬帝を怒らせたというところまでは、よく知られている。事実、日本書紀にも、推古天皇の15年となる西暦607年に、小野妹子を使者として派遣したことが述べられている。もちろん、このことは隋の正式な国史である「隋書東夷伝」にも「大業3年(607年)、その王・多利思比孤(タリシヒコ)、使いを遣わして朝貢す」と書かれている。が、このタリシヒコが7年前(600年)にも、隋に使者を送っているのが、同書に記されている。また隋の役人の質問に対して、使者は「倭国の王の姓は阿毎(アメ)、名はタリシヒコ」と答えている。しかし日本書紀では、第1回目となる600年の遣隋使については何も触れていない。 600年となる日本書紀の推古8年の条は、倭王・武(雄略天皇のこととされている)以来、実に100年振りとなり、歴史的大偉業とも言うべき中国への使者の派遣であるが、黙殺している。日本書紀では、あくまでも607年の小野妹子派遣が最初の遣隋使なのである。煬帝は翌年、小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を同伴させているのだが、その裴世清、帰国後に「日出ずる処の天子」は男帝であり、火を噴く山(阿蘇山?)も見てきたと、報告している。

 ところが、日本書紀では、この607年の遣隋使として、小野妹子派遣と、裴世清の来日は述べているが、有名な「日出ずる処の天子」という国書を持参させたことは伝えていない。当時(7世紀初頭)大和朝廷は、推古天皇(女性)であり、厩戸(聖徳太子)摂政の時代である。また、当時の大実力者・蘇我馬子時代でもある。外国の史書が虚偽を述べる理由はあり得ない。故に、日本書紀の記述が多々疑問視されている理由の一つでもある。当時の日本には、大和朝廷と並立する[九州王朝]の存在が提唱されて、古代史の旅を楽しませてくれている。

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