記事のアーカイブ

2017年03月06日 15:53

ポルトガルのバス旅ツアー(2017.2.11〜19)。

ここ に地終わり、海始まる』という一節が刻まれた塔が建つロカ岬。首都リスボンから約110km,...

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2016年05月22日 11:04

陸奥の旅:4月24-26(青森、秋田、岩手)

福岡市の桜満開を観て、約3週間後、青森の桜の満開時期に出会うことができました。福岡の桜、京都の桜、etc....

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2016年02月23日 12:25

怨恨は何処へ?

  不思議な気分である。なんとも表現しがたい。『あ、そうですか!』なのである。我ながら己の気持ちが理解できない。『ふう〜ん、そうなのか』である。「それだけで良いのか、もう少しはしゃいで、なんとか罵倒してやれ!」と、脳細胞の隅の方の記憶装置が、何やらモヤモヤと揺らいでいる。  謂れなきハラスメントにさらされていた当時(約20余年前)、暦のうえでは、立春頃。されどまだまだ寒い時期。「風雪に耐えて遠い春を待つ寒立馬」や「寒風にめげずに凛として立つ水仙」の姿に、自分の置かれた立場を置き換えて、やがて来る春の到来を期待しておりました。  つい先日、当時のハラスメントの元凶であったHの死亡の報せを受けた。

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2016年01月18日 19:51

一期一会の旅

9月12日〜21日 の旅(The last travel in my life to a foreign...

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2015年12月25日 11:37

落ち葉が舞い散る候

「喪中につき・・・・・」のはがきの舞い込む時期になりました。そんな中、学問の師であり、人生の先輩であり、また親兄弟に近い身近な存在であった先生(91歳)の訃報に接しました。偶然の出会いの当時、ロンドン留学帰りの我が師は、パイプをくゆらせながら,『世界的な研究成果ですな!』を口癖にして周囲を煙に巻いていました。それ以来、半世紀に及ぶご厚誼をいただきました。『ご厚誼? 何言ってんだよ!』と叱咤されそうであります。が、彼が学部長に就任した後に訪ねた折の帰り際、次回からは『アポイントを取ってくれたまえ』と言われて、仰天して「今更、なんですか」と笑い合ったたこともありました。ある時期に疎遠になったことも

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2015年12月21日 22:30

秋晴れの気まま旅

 秋晴れのドライブ(1,340km)、5泊6日の気まま旅(10月9〜14日)。 早い寝覚めを有効に使い、午前2時半に福岡を発進。岡山市の造山(つくりやま)古墳造を目指した。    日本最大の前方後円墳は大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵、全長486m)、大阪府羽曳野市の誉田山古墳(応神天皇陵、全長420m)、大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(履中天皇陵、全長362m)など、200m以上のクラスの古墳の多くは奈良盆地と河内平野に集中して築造されている。そんな中にあって、全国第4位の巨大古墳である岡山県岡山市の造山古墳(360m)や岡山県総社市の作山古墳(286m)は、特異な例外である。また、天

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2015年04月29日 10:39

坊さん不在の自由形式の葬送

  約半世紀の親交のあった友(享年71歳)が、桜の花びらの淡いピンクの絨毯が敷き詰められるのを待っていたかのように、ジャズの音楽の流れに乗って軽やかに幽界へ旅立ちました。  やんちゃな十代の頃のエピソードを述べた幼な馴染みからの弔辞、故人の新たな一面を知らされた。『爺じ、沢山の本を読んでくれてありがとう。勉強を教えてくれてありがとう。○○も、○○もありがとう』と、お爺ちゃんへの呼びかけで始まった8歳のお孫さんの沢山のありがとうの送辞、そして自分の死後の始末で苦労させたくないと、気使っていた奥様からの感謝の言葉、『優しさに包まれて過ごした日々をありがとう』、等々を贈られて、遺影が少し照れている

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2015年01月12日 13:11

古代への旅 III

  中国の歴史は、夏王朝(BC21~17世紀)に始まり、殷(BC17~12世紀)、周(BC12世紀~256年)の興亡を経て、秦の始皇帝(BC247年)へと続き、前漢(BC256~)、後漢(AD25年〜)の時代に倭人との関わり(遣使貢献)が始まっているようだ。中国の歴史書には前代の歴史書を前提として記述され、そのあとの情報を付加する習わしがある。周の時代の歴史書「論衡」に倭人(我が国か?)の(薬草の)朝貢が記載されているのが中国の歴史に登場する最初とされている。BC256年以前であるから、縄文時代の後期に相当する。三内丸山遺跡(青森県)との関わりであろうか?。「漢書」や「後漢書」には、

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2014年07月28日 10:51

古代への旅 I-2

   観世音寺創建が六六一年(白鳳元年)であることが定説とされる現在です。また、太宰府の条坊制は、考古学資料より、政庁や観世音寺の建設まえの制定であることも明らかになりつつあります。この両建物の中心軸が、条坊制の区割りに一致する事が判明したからです。ここから、それでは『条坊制は何の為に創られたか?』、になります。ここで、旧地名の内裏や紫宸殿、等の意味が検討されて、天子の居所を中心に条坊制が制定されていたと推測されるのです。したがって、政庁跡 or...

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2014年07月16日 14:16

古代への旅 I-1

    大宰府政庁跡は、三世紀の女王卑弥呼が住んでいた場所になるのではないか、との希望的な推察が生まれるのです。期待が膨らみ落ち着かなくなり、九州歴史資料館を訪ねました。しかしながら、都府楼跡の遺跡をさらに深く掘り返して、『遺物や遺構の発見がなくては何とも言えない』との、さりげないお役所的な回答でした。古代のロマンの広がりは、小生の意識の流れをしばし留めてくれそうです。    古代への旅 I...

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