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2017年03月06日 15:53

ポルトガルのバス旅ツアー(2017.2.11〜19)。

ここ に地終わり、海始まる』という一節が刻まれた塔が建つロカ岬。首都リスボンから約110km, ユーラシア大陸最西端に位置する。この海の彼方に、我が国へと海路があったのかと思いを馳せてきた。

 ロカ岬

巨大な6km)ユーラシア大陸の西の果て。ポルトガルの詩人カモンイスが詠んだ詩の一節の『ここに地果て、海始まる』が刻まれた石碑が、大西洋からの風を受けて立っている。

 

ポルトガルのバスツアー旅に参加した。ポルトガルは、ヨーロッパの西端にあり、イベリヤ半島の85%を占めるスペインに、西海岸沿いに押しやられている小国である。国土面積は日本の1/4、人口は1000万人ほど。オリーブ油とワイン以外、これといった産業もない。ところが、歴史上燦然と輝く大航海時代は、この小さな王国から始まっているのである。1400年代末期から1600年代中頃、「大航海時代」と呼ばれて、ヨーロッパ人が世界の植民地化を開始した当初、最も力のあった王国はスペインとポルトガルでした。この二国は、「香辛料」をはじめとする貴重な品々の貿易を独占し、富を得るために、当時発明された羅針盤を駆使して海を渡り、香辛料の生産地で有名だったインドを目指した。西廻り海路(アメリカ大陸を発見;1492年)を開拓た大国スペイン(コロンブス)に対抗して、アフリカ大陸を南下、喜望峰を回ってインドに達する航路の開拓者(バスコ・ダ・ガマ;1498年)として知られるインドへ向かう東海路を開き、(マゼランの世界一周;1522年へと繋ぎ)、植民地政策で一時期巨万の富を築いた国である。

 まずは、スペイン北部に在るキリスト教の三大聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を訪ねて、ポルトの二泊から始まった。ポルトガル発祥の地でありポートワインやアズレージョ(陶器タイル)で有名な町である。ここより、徐々に南下してコインブラ、ナザレ、リスボンへ泊まりを重ねて進む行程で在る。我が国における戦国時代には、ポルトガルとの結びつきを歴史で学んできた馴染み深い国である。南蛮船が漂着してもたらされた火縄銃(1543年;種子島への鉄砲伝来、1549年;キリスト教伝来へと繋がる)やカルタ、カステラ、ボタン、ビスケット、かぼちゃ、等々は、ポルトガル語に由来する。政治や宗教にまつわる当地の歴史が耳新しく興味深く感じ、楽しい旅でした。各地の食べ物が、基本は、スープとmain dish(牛肉、豚肉orタコやイカなどの魚介類)のポテト煮込みなどに!、デザートを加えた三点ものでワンセットでした。が、ビーニョ・ベルデ(発泡ワイン)や国産地ビールも美味しく、不思議と小生に合う日本風の感じがしました。漁師町ナザレでの夕食:main dishのイワシの塩焼きは、小生には塩加減が絶妙でした。

 サンティアゴ・デ・コンポステーラ聖堂(世界遺産)

9世紀の初頭、星に導かれた羊飼いが、この地で、キリストの12使徒の一人であるヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓を発見した。その後キリスト教徒の聖地とされ、ピレネー山脈を超えた各地から巡礼者が訪れるようになり、巡礼街道の終点になった。ヤコブが祀られているカテドラル(聖堂の天井)。(外壁の工事中で、遠景からも被写体として堪え難い装いでした)。

 

歓喜の丘

大聖堂を指差す往年の巡礼者の像がある歓喜の丘(巡礼者が聖堂が見えて歓喜したのでしょう!)の観光案内所の壁に、現代の巡礼者の姿がパネルに飾られていた。現代、巡礼と認められるのは徒歩100km以上、自転車では、200km以上で、途中の証明が必要とのこと。

 

ポルト

ドウロ川の南岸は、ローマ時代にカレーと呼ばれる州出会ったことから、ポルトウス・カレーと呼ばれ、これがポルトガルの語源になった。初代ポルトガル国王の進軍により南へ領地を広げた。ポルトガル発祥の地である。ワイン醸造所の景色。

 

   

 

サン・ベント駅(ポルトの玄関口)

20世紀の初め、修道院の跡地に建てられた鉄道駅。ホールの壁を飾るアスレージョ(陶器のタイル)ポルトにまつわる歴史的な出来事が描かれている。

  

 

 デイナーショウで、「哀愁を帯びた歌声とギターの調べ」のファドを聴いた。

「ファドと云う言葉は、「運命」や「宿命」を意味するポルトガルの民族歌謡である。失われたものに対する郷愁、悲しみや懐かしさなど、人々の心の感情を表現している」とされている。日本における演歌(哀歌)なのでしょうか!。

 

表情は哀しそうですが、力強く堂々と唄われる言葉を理解できないために、感情が伝わらなかった。

 

コインブラ

政治のリスボン、商業のポルトに次ぐポルトガル大3の都市、コインブラは、大学の街、文化の中心地である。14世紀以降、王宮跡地が大学として使用されている。左端の時計塔は、18世紀に建造されたもので、大学のシンボルに鳴っている。

 

高台にある大学から、モンデゴ川を望むコインブラの街並み

 

戦闘に勝利した将軍の像とバターリヤ修道院(世界遺産)

ポルトガル語で「戦い」を意味する名を冠し、ポルトガル独立を象徴する修道院(コインブラから南へ約70km)。

 

崖上のシティオ地区からの港町ナザレ(コインブラから南へ約100km)の眺め。

夏には、ヨーロッパ各地からのバカンス客で、浜辺が埋め尽くされる。

 

“谷間の真珠“ と呼ばれる城壁に囲い守られた村、オビドス(ナザレから約40km)

  

 

リスボン。

「七つの丘の街」と呼ばれる起伏の激しい土地に約48万人が暮す古き良き都。

朝の出勤時は、車の渋滞の列。

   

 

「発見のモニュメント」像

輝かしい大航海時代を切り開いた偉人たちを記念して造られた。最先頭に、エンリケ航海王子、バスコ・ダ・ガマ(3人目)とマゼラン(6番目)の像があり、天文学者、宣教師、船乗りなど、当代に活躍した人々が続いている。

 

ジェロニモス修道院(世界遺産。リスボン中心部から西に6km)

エンリケ航海王子、バスコ・ダ・ガマの偉業を讃え、また新天地開拓へと乗り出す航海の安全を祈願して、1502年の着工から約一世紀をかけて完成した。ポルトガル海洋王国の記念碑と言える。

 

バスコ・ダ・ガマの棺(ジェロニモス修道院)

 

リスボンの台所、カイス・ド・ソドレ地区にあるリベイラ市場がグルメな巨大なフードコートを開設。「人気のリスボンの有名店が軒を並べており、伝統的なポルトガル料理はもちろん、寿司を始めとしたオリエンタル料理、ステーキ、ハンバーガー、ピザまでと幅広いラインアップが特徴です。何を食べてよいか迷ってしまいます。」と紹介されています。実際に、大きすぎて全体が把握できない。適当に指差しで注文して、昼食を楽しみました。

 

寿司屋さんもありました。現地のガイドさんの一番のお薦めは、看板に見える matsu ;15.5ユーロ のお寿司でした。

  

 

また、ガイドさんお薦めのスイーツは、ポルトガルで一番美味しいと評判の行列の店のパステル・デ・ナタ(エッグタルト)。購入したら、暖かいうちに直ぐ食するのがベストであるとのこと。バスの集合時間を気にしながら、行列に並び購入して、食べながらバスに走り戻りました。評判(?)通りの美味さでした!!。

 

心残りが一つある!。不幸にも、本場のカステーラを味わえなかったことである。お薦めの店ですでに売り切れ!、であったからだ。

カステラの原型となったお菓子、ペオン・デ・ローを賞味してきた。中身がとろりとした生焼けで、すごく甘く濃い味。カフェ・ピンカード(すごく苦いコーヒー:エスプレッソ)がマッチしているでしょうか!。(web からの転載写真)。

 

 

 

 

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2016年05月22日 11:04

陸奥の旅:4月24-26(青森、秋田、岩手)

福岡市の桜満開を観て、約3週間後、青森の桜の満開時期に出会うことができました。福岡の桜、京都の桜、etc. どこの桜もそれなりに素晴らしいものです。が、東北の桜は、また一味が異なり、自然の雄大さがうかがえる、巨大な幹の野性味が溢れた奔放さが見られました。

津軽三味線ギターの様につま弾く、演歌歌の「帰ってこいよ」の歌詞でお馴染みでした「お岩木山」』。様々な訳があって故郷を出た人達にとって、久々の帰郷に際して眺める山の雄大さ、心のふる里としての懐かしさをそなえた容姿への思い、感慨を抱かせる素晴らしい景色でした。

 

 富士山のような独立したたたずまいから「津軽富士」と呼ばれている岩木山(標高1,624m):弘前城公園からの景観

 

岩木川の河原からの岩木山

 

夕暮れ時の岩木山

 

弘前城公園の満開のサクラ、サクラ、の花盛りには驚き飽きれました。

ソメイヨシノ:推定樹齢100~120年で主幹幹周5.37m、樹高10m

 

日本最古のソメイヨシノ(樹齢128年).

一般的に植えられてから60年ほどで枯れていくため「ソメイヨシノの寿命は60年」といわれる。

 

田沢湖たつこ像と秋田駒ケ岳(標高1,637m)

 

田沢湖と秋田駒ケ岳

 

桧木内川(仙北市角館)の土手の桜並木のトンネル

 

 

 

小岩井農場の一本桜(エドヒガン桜、樹高約20mの堂々たる大きさである。

例年、5月の連休の頃に一本桜は見ごろを迎えるそうです。が、まだ開花には早すぎました!)と岩手山

 

雫石町の御所湖からの岩手山

 

岩手山から連なる駒ヶ岳

 

北上川からの彼岸の遥か後方の山並み(奥羽山脈)

 

『甘くせつない青春の愛唱歌「北上夜曲」は、昭和16年2月、まさに軍歌行進曲全盛の中で生まれました。北上夜曲は、当時18歳と17歳の二人の男子学生が作詞、作曲したものです。』と、記念碑(北上市立花 展勝地)に紹介されています。世の中、軍国主義の時代にそぐわない歌であったからこそ、静かにひそやかに歌い継がれてきたのでしょう!。

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2016年02月23日 12:25

怨恨は何処へ?

  不思議な気分である。なんとも表現しがたい。『あ、そうですか!』なのである。我ながら己の気持ちが理解できない。『ふう〜ん、そうなのか』である。「それだけで良いのか、もう少しはしゃいで、なんとか罵倒してやれ!」と、脳細胞の隅の方の記憶装置が、何やらモヤモヤと揺らいでいる。

 謂れなきハラスメントにさらされていた当時(約20余年前)、暦のうえでは、立春頃。されどまだまだ寒い時期。「風雪に耐えて遠い春を待つ寒立馬」や「寒風にめげずに凛として立つ水仙」の姿に、自分の置かれた立場を置き換えて、やがて来る春の到来を期待しておりました。

 つい先日、当時のハラスメントの元凶であったHの死亡の報せを受けた。その時の瞬間の小生の気持ちである。Hのことを端的に言い表せる言葉としては、「暴君」と言えるでしょう。傍若無人な振る舞いは、人間性の醜い一面を曝け出していた。虚栄心、権力欲、自己顕示欲、金銭欲、等々が極端に強い男であった。国の専門職養成の教育機関の一つである地方組織の末端にある部署の長であったのがHである。小生の一時期(16年間)の直属の上司であったHである。そのHは、「ボクの立場は、人殺しさえしなければ、何をやっても良いのですよ」と、平気で宣っていた不埒な奴(?!)である。どれだけ憎んでも憎くみ足りない、ボコボコに殴りつけたい奴でした。Hを頂点にして、以下に6人の男(3人)女(3人)が配属されていた部署であるが、Hにとっては家来を従えた殿様気分で過ごしていた。日常業務の大半を男性の部下に丸投げして、女性の事務官と技官(♀)を常に身近くに侍らせて狭い郭内を歩き回り、アレコレと注文をつけては、理不尽な要求を指示していた。一日中が、Hの監視下にあり、針のむしろ状態であった。小生の身体の変調異常が顕現し始めた。まずは便秘、睡眠が不足気味になり、さらに食欲低下、徐々に稲妻の突き刺さりのような偏頭痛へと進行した。夜中に目覚めて、眠れず、息を吸うと吐くを意識してやなければ呼吸が止まりそうな恐怖(過呼吸症候群?)に駆られ、戸外に出て真夜中の住宅街を歩き回って気を鎮めることもあった。同僚(♂)の一人は、精神的に異常をきたし、精神科への入退院を繰り返して、追い詰められて辞職した(まだ50代の壮年期であったが、その後、間も無くの死亡を知らされた!)。パワハラ、セクハラ、アカハラ、等々のやりたい放題の環境が許容されていた。上司に逆らうことは、世間が認めなかった。現代のように、ハラスメントへの理解がなかった時代である。これらに至るまでに、部署内のHの所業の異常さを再々訴えたが、同情はされるが、誰もが我が身へ降りかかる後難の火の粉を恐れて、周囲からの支援は皆無であった!。Hの定年退職まで、圧政から逃れられなかった。

  その「暴君」の死亡の報せに対して、昔日の恨みやつらみをぶっつけたい気持ちが全く沸かないのである! 「病の告知を受けてもがき苦しみながら逝った」、とでも報せられたら、因果応報だ! ざまーみろと言ってやれるのであるが!

 人は、「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」米国の作家、レイモンド・チャンドラーが生み出した小説の主人公に言わせたセリフである。この言葉は、小生の気持ちの中に、毅然と屹立している。(寒立馬の写真は、webより入手。)

 

 

 

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2016年01月18日 19:51

一期一会の旅

9月12日〜21日 の旅(The last travel in my life to a foreign country!)でした。

 今夏の猛暑中、冷房の効きすぎによる風邪、その後の眩暈へと、連続の発症。つくづく体力の衰えの現実を知りました。残りの気力を使い尽くす前に、往年の留学時の夏休みに、果たせなかった企画:「フランスから車でのピレネー山脈越え」を、借金を返済する気持ちで再挑戦した次第です。しかし、今回は飛行機、福岡を朝に立ち—>アムステルダム乗継経由—>当日の夜にバルセロナへ着。太陽と共に飛んで行ったので、時間差をあまり感じなかったようだ。スペイン国内はバス移動。先ずは、サグラダファミリアのバルセロナ観光 ー> オレンジで有名なバレンシアを抜けて ー> アルハンブラ宮殿のグラナダ ー> 白壁のミハス ー> オペラの舞台のセビリア ー> 大聖堂(メスキータ)のコルドバ —> 風車のラマンチャを走り首都のマドリッドでプラド美術館の見物。その後、帰国。キリスト教やイスラム教の宗教の違いやその宗派の違いにより生み出された、さまざまな文化習慣、遺跡の多様さ、アレコレを味わってきました。たびたび味わった本場のパエリアは、米の硬さに慣れるには時間不足でした。

 観光地の人混みを抜け出た郊外の景観、オリーブ畑、ミカン畑や既に収穫刈り取りが終わったヒマワリ畑、高速道の車窓につぎつぎと飛び込む見渡す限り一面の広さに圧倒されました。

私方、精神的な鎖国にならぬように、悪あがき?!に努めております。写真で景観の一部をお伝えします。 
 
サグラダファミリアの外壁
 
    
サグラダファミリアの内部
 
 
 
バルセロナのグエル公園
 
 
 
 
 
バルセロナの港のコロンブスの塔
 
 
グラナダのアルハンブラ宮殿の中庭
 
 
 
アルハンブラ宮殿の内部
 
 
 
 
郊外のオリーブ畑
 
 
現在は定住しているジプシーのフラメンコ
 
 
岩山の上のロダンの街
 
 
既に刈り入れが終わったヒマワリ畑。花の時期は壮観であったか!?
 
 
セビージャのスペイン広場。
 
 
コルドバのメスキータ。キリスト教の聖堂とイスラム教のモスクが共存しています。
 
 
 
 
ラマンチャの丘の風車
 
 
 
マドリッドのスペイン広場のセルバンテスの記念碑
  
 
 首都マドリッドは、さすがの賑わい。どこを歩いても人々の流れ、きままに歩いていると連れを見失うことしばしば! たびたび見かける大道芸のパフォーマーには、奇異な感触をうけました。にこやかにコインを投げいれる通りがかりの人達、各種の芸を理解しているようです。が、小生には?!、でした。
ついでながら、ストリートパフォーマーの写真を添付いたします。
 
 写真1:大道芸のパフォーマー 1 
写真をパチリとやって行き過ぎようとしたところ、何やらニワトリ風の奇妙な大声で喚き叫ばれました。即座に、怖くなって逃げましたが。Mamma mia!も発されていたか。日本語的に解釈すれば『コラー、銭を置いていけ!』だったのかも。
 
 
 
 写真2:大道芸のパフォーマー 2 
三個の晒し首がおいてある。真ん中の首が本物。その両側の首が通行人に向かって、奇声を発しながら時々伸びてくる。驚いて逃げる人からのコインは、貰えないだろうけど。小生、正面からの撮影には恐怖があって出来なかった!
 
 
 
 
写真3:大道芸のパフォーマー 3 
ひたすら静止、我慢と忍耐の体勢
 
 
 
 
写真4:大道芸のパフォーマー 4 
上部の人形の顔は、表情があったけど、生身の人間か?。下部の人間がその体重を支えるのは至難の技! 恐怖心が先にあり詳細な観察は不可!。
 
 
 
写真5:
首都マドリッドのスペイン広場のセルバンテス記念碑です。
ドン・キホーテの著作者;セルバンテスは不遇な生涯を送ったそうです。まさに光と影の写真のように!。
 
 

 

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2015年12月25日 11:37

落ち葉が舞い散る候

「喪中につき・・・・・」のはがきの舞い込む時期になりました。そんな中、学問の師であり、人生の先輩であり、また親兄弟に近い身近な存在であった先生(91歳)の訃報に接しました。偶然の出会いの当時、ロンドン留学帰りの我が師は、パイプをくゆらせながら,『世界的な研究成果ですな!』を口癖にして周囲を煙に巻いていました。それ以来、半世紀に及ぶご厚誼をいただきました。『ご厚誼? 何言ってんだよ!』と叱咤されそうであります。が、彼が学部長に就任した後に訪ねた折の帰り際、次回からは『アポイントを取ってくれたまえ』と言われて、仰天して「今更、なんですか」と笑い合ったたこともありました。ある時期に疎遠になったこともありましたが、良くも悪くも切れない仲でありました。

 『君が、ノーベル賞をもらったら、賞金は山分けだよ! 君の師は、僕だからね!』と。小生が大学院生の時の先生を師匠とすれば、彼は、その同じ師匠からの兄弟子にあたります。しかし、半分冗談で、少し本気な部分もあった能天気(?)な師でもありました。

 

 久々の晴天日、ご家族、ご親族とその他の参列者の皆様に見送られて、我が師(の霊)は無事に「西方極楽浄土」へ旅立たれました。お二人の息子さんの存在に後顧の憂いなく、『良い生涯であった。思い残すことはない。ありがとう。』との言葉を残されて、安らかに目を閉じられたそうである。合掌!。

 今年の四月の桜の頃、長い付き合いの友を亡くしました。継いで我が師であります。言い古された言葉ですが、「人は、うまれる時も、死ぬ時も一人」であることを、思い知らされました。人の死とは、いかに理解したらよいのでしょうか? 今更ですが、考えさせられています。

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2015年12月21日 22:30

秋晴れの気まま旅

 秋晴れのドライブ(1,340km)、5泊6日の気まま旅(10月9〜14日)。

早い寝覚めを有効に使い、午前2時半に福岡を発進。岡山市の造山(つくりやま)古墳造を目指した。

 

 日本最大の前方後円墳は大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵、全長486m)、大阪府羽曳野市の誉田山古墳(応神天皇陵、全長420m)、大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(履中天皇陵、全長362m)など、200m以上のクラスの古墳の多くは奈良盆地と河内平野に集中して築造されている。そんな中にあって、全国第4位の巨大古墳である岡山県岡山市の造山古墳(360m)や岡山県総社市の作山古墳(286m)は、特異な例外である。また、天皇陵に比定されていないので、自由に立ち入りできる古墳としては最大の古墳である。現状は、円墳部分の頂上が平らに削られており(畑地とされているのか!?)、全面が木々と草に覆われている。5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれている。考古学的資料から、大和朝廷の成立に、出雲と吉備の両国の絡みがあることが明らかにされている。従って、造山と作山の両つくりやま古墳の存在は、小生にとって興味をかき立てられる存在である。

 次いで、瀬戸中央道を通り四国へ。大歩危、小歩危と祖谷の吊り橋を見物。

高知へ向かい、桂浜で龍馬の像に挨拶、さらに南をめざして四万十川の沈下橋。翌朝、朝食抜きの午前5時に出発、四国最南端の足摺岬を見物。その後、愛媛へ北上、八幡浜からフェリーで別府へ。大分自動車道で天ヶ瀬温泉へ。最終日は、久々にやまなみハイウエイを瀬の本高原まで走りました。

 全行程が、秋晴れの爽やかさと心地よい温泉を満喫したドライブ旅でした。

 

 

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2015年04月29日 10:39

坊さん不在の自由形式の葬送

  約半世紀の親交のあった友(享年71歳)が、桜の花びらの淡いピンクの絨毯が敷き詰められるのを待っていたかのように、ジャズの音楽の流れに乗って軽やかに幽界へ旅立ちました。

 やんちゃな十代の頃のエピソードを述べた幼な馴染みからの弔辞、故人の新たな一面を知らされた。『爺じ、沢山の本を読んでくれてありがとう。勉強を教えてくれてありがとう。○○も、○○もありがとう』と、お爺ちゃんへの呼びかけで始まった8歳のお孫さんの沢山のありがとうの送辞、そして自分の死後の始末で苦労させたくないと、気使っていた奥様からの感謝の言葉、『優しさに包まれて過ごした日々をありがとう』、等々を贈られて、遺影が少し照れているように見えました。祭壇正面のスクリーンに映し出された若かりし頃のスライド写真、当時を思い出して懐かしく、また故人の脳裏にも去来したであろう記憶の瞬間の数々、走馬灯のような感を受けました。楽しい一生を終えたのでしょう!。故人の人柄が偲ばれる暖かい雰囲気の式でした。

 ある日突然に末期肝臓がんの宣告をうけたようだ。以前から肝臓の検査値が肝機能異常を知らせていた。にもかかわらず、自覚症状がないこともあり、我流の漢方処方薬で、かれこれ三十年くらいごまかして来た結果である由。今後は、『「がん放置療法」を採用して、ホスピスを探す努力をする』と、メールしてきていた。つい数日前に、すこしふざけながら『ラーメンなみに3分でできちゃった我が究極の辞世の句を披露いたします。』との メールも受けていました。また、情熱的な故人には、学生時に一方的な片思いのマドンナが居た。周りが盛り上げてラブレターを書かせた。が、敢え無く撃沈された。そのマドンナと、卒業以来の再会を果たした由。それで?、と先を促したところ、『懐かしかった。楽しかった。会えて良かった』と、こちらの野次馬根性を見透かした拍子抜けの対応であった。

 ホスピスのベッドに起き上がり、『それじゃ、またね』と、握手した。お互いに、次週の再会をみじんも疑っていなかった。が、その後、一時外出で自宅に戻り、何冊にもなる日記帳を破棄処分したと、奥様から聞かされた。格好良過ぎる旅立ちであった。『三途の川を渡る時は、励ましてもらいたい』と請われていたので、精一杯の応援歌をおくり届けたい!!。彼の人生は、十分に満たされたものであったようだ。 合掌!。

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2015年01月12日 13:11

古代への旅 III

 

中国の歴史は、夏王朝(BC21~17世紀)に始まり、殷(BC17~12世紀)、周(BC12世紀~256年)の興亡を経て、秦の始皇帝(BC247年)へと続き、前漢(BC256~)、後漢(AD25年〜)の時代に倭人との関わり(遣使貢献)が始まっているようだ。中国の歴史書には前代の歴史書を前提として記述され、そのあとの情報を付加する習わしがある。周の時代の歴史書「論衡」に倭人(我が国か?)の(薬草の)朝貢が記載されているのが中国の歴史に登場する最初とされている。BC256年以前であるから、縄文時代の後期に相当する。三内丸山遺跡(青森県)との関わりであろうか?。「漢書」や「後漢書」には、『楽浪海中(韓の東南大海)に倭人有り、分かれて百余国である』と、倭人の存在を記している。漢の次の時代の歴史書「三国志」の中の魏書—東夷伝—倭人条(魏志倭人伝、三世紀編纂)に記載された邪馬台国の所在や女王卑弥呼の存在について、記載内容の解釈でさまざまな論争がなされている。が、21世紀の現在においても謎とされている。外国の歴史書に記載されているにも拘わらず、日本書紀には記載がない!。

 我が国である倭国に関する中国の史籍の記事は、一世紀(57年)の「漢委奴国王」の金印紫綬から始まり、二世紀(107年)の倭国王帥升の朝貢、三世紀(238年)の卑弥呼の遣使貢献、四世紀の空白の期間から五世紀の倭の五王武を最後に約100年間(六世紀)の空白後の七世紀の遣隋使・遣唐使の派遣に至ることになる。我が国については、倭、倭人、奴国、委奴国、倭王、倭国王、俀國、等々の記述であったが、旧唐書において、倭国と日本国(ヤマト国)が分けて記載。それ以降の新唐書からは日本国とされた。中国史料において、現代の日本列島の全体の認識が、当初からあったとは考え難い。古代のある時期の最大域としても、九州から近畿大和までの地域の倭国であり、東海以東の存在は認識されていない日本国であったようだ。

 日本国家の成り立ちについて、古事記、日本書紀に記されているが、文献史学と考古学との一致を見ない部分が多々ある。かつ古事記・日本書紀の神代、古代の記述の解釈は、天皇は神の末裔であり、万世一系の不可侵の存在であるとの皇国史観に基づいた解釈の呪縛からは逃れられない現状があるようで、真実を伝えているとは考え難い内容である。

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2014年07月28日 10:51

古代への旅 I-2

 

 観世音寺創建が六六一年(白鳳元年)であることが定説とされる現在です。また、太宰府の条坊制は、考古学資料より、政庁や観世音寺の建設まえの制定であることも明らかになりつつあります。この両建物の中心軸が、条坊制の区割りに一致する事が判明したからです。ここから、それでは『条坊制は何の為に創られたか?』、になります。ここで、旧地名の内裏や紫宸殿、等の意味が検討されて、天子の居所を中心に条坊制が制定されていたと推測されるのです。したがって、政庁跡 or 都府楼跡と言われている現在地の地下には、九州王朝の宮殿が在ったことになるのです。さらにロマンを押し広げて行くと、水城の最初の創成時期の三世紀には、中国の道教思想に基づく風水による主要地としての卑弥呼の居所(風水都市)が在ったとの推測が可能になるのですが!。

 正当 or 正統派の歴史学者の方々から、お叱りを受けそうな展開です(笑)。

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2014年07月16日 14:16

古代への旅 I-1

 

  大宰府政庁跡は、三世紀の女王卑弥呼が住んでいた場所になるのではないか、との希望的な推察が生まれるのです。期待が膨らみ落ち着かなくなり、九州歴史資料館を訪ねました。しかしながら、都府楼跡の遺跡をさらに深く掘り返して、『遺物や遺構の発見がなくては何とも言えない』との、さりげないお役所的な回答でした。古代のロマンの広がりは、小生の意識の流れをしばし留めてくれそうです。
 
 古代への旅 I を掲載後、以下の文章:『』内を発見!。
 
『筑紫に都督府が設置されていたのは、663年の白村江の敗戦から、唐が676年に熊津都督府や平壌の安東都護府を放棄して、遼東の建安城に撤退するまでの、13年間ほどです。』
 
  唐・新羅の連合軍に、倭国が敗戦したことは、歴史で学びました。が、敗戦後の処理のために唐の軍隊が進駐していたようです(記紀には記述なし!)。その際に、「都督府」がおかれていたとは!、です。都府楼跡の説明は、これで可能になります。しかし、地名の太宰府は、それ以前の「内裏」、[紫宸殿」、等の天子(天皇)の居所であった地名に由来する別の歴史がありそうです。
 
 小生の独断的偏見(!?)からの推察:太宰府の地には、以下の歴史が混在していると解釈されるのです。
 
1。大宰府政庁跡  ーーーーーーーー 近畿大和朝廷の出先機関
2。都府楼跡    ーーーーーーーー 唐の冊封体制下の都督(天子の代理として軍事を司る役人)の役所(府): 筑紫の都督府
3。太宰府     ーーーーーーーー 太宰(中国王朝の総理大臣格役人)の役所(府):  九州王朝の中枢機関
4。地名「内裏、紫宸殿」 ーーーーー 九州王朝(?!)の天子の居所

 

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